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社会科 歴史(ハロ歴) No.25 中国の宋・元の時代 ■ |
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1.宋の中国統一 |
960年に、後周の将軍であった趙匡胤によって宋が建国され、 次の太宗の時代には中国を統一した。
宋は、学識をもった文人官僚によって政治を行う文治主義を とり、科挙を整備していった。
10世紀の初めごろ、モンゴル高原では契丹という国が勢力を 強めていった。契丹は勢力範囲にはさまざまな諸民族がおり、 官制は部族制による北面官と州県制による南面官という二重 統治体制であった。契丹は時期によっては遼という中国風の 名を使うときもあった。 また、仏教をとりいれて、契丹文字という独特な文字をつくりだ した。
宋の西北では西夏という国が中国と西方を結ぶ重要交通路を 押さえ、仏教をとりいれ、西夏文字という独特な文字による仏典 の翻訳が行われた。
北宋では、契丹と西夏の圧迫をうけていた。宋は王安石を登用 し、新法とよばれる農民や商工業者の生活安定と生産増加、国
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10〜12世紀の東アジア
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家財政の確保と軍備増強の富国強兵策をとったが、反対派との対立が長引き、国力を弱めることとなった。
契丹(遼)の東では女真という国があり、女真文字という独自な文字の文化がつくられていた。はじめは契丹 に支配されていたが、12世紀の初めに独立して金という国名を称した。
宋は金と結んで1125年に遼を滅ぼしたが、金が華北を占領し、宋は江南に逃れて南宋をたてた。(それ以前 の宋を北宋という。) | |
2.宋の社会と文化 |
宋は都を唐の長安のような計画都市ではなく、古くから城壁都市として存在していた開封にさだめ、商業都市 として発展させていった。
貨幣経済が発達し、銅銭の他に、金や銀の地金、手形は紙幣として使われるようになった。裕福になった人々 は地主となり、荘園を直接経営するのではなく、佃戸(でんこ)とよばれる小作人に土地を貸して小作料をとる方式 をとった。
宋が江南に都をたてると、中国経済の中心が長安から東南の地域に移っていった。そこでは囲田とよばれる 堤防で湿地帯を囲み干拓した田で集約的な稲作が行われるようになった。
また、陶磁器や茶・絹などの特産品が各地で集中的に行われ、それにともない海運や運河などの交通路も 発達した。
宋の文化の担い手の中心は、士大夫とよばれる儒学を身につけた知識層であり、芸術も外面の装飾にこだわ らず、ものごとの真理をつかみとろうとする、すっきりとした理知的な芸術が好まれるようになった。
儒学では、宇宙万物の本質を求める宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成されたことから朱子学とよばれる ようになった。朱子学は四書とよばれる「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」が重視され、社会秩序を守ろうとする 大義名分論などの内容は日本にも影響を与えた。
このほか、歴史では司馬光の「資治通鑑」、古文復興では王陽脩(おうようしゅう)・蘇軾(そしょく)らが活躍した。
美術では、写実的な院体画とならんで、自然の観察を通じて宇宙の真理を映し出そうとする文人画もさかんに 行われるようになった。
工芸では、高温で焼いたかたい白磁や青磁などの生産が行われるようになった。
商業の発達によって、庶民の文化も発展し、小説などでうたわれる詞がさかんにつくられるようになった。
宗教では、禅宗が支持され、さかんに行われるようになった。
唐の時代にはじまった木版印刷が普及し、羅針盤や火薬などが実用化されていった。
宋の文化は、港にイスラム商人が来航し、ヨーロッパに伝わっていった。 | |
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五代〜北宋時代 の白磁器 |
北宋時代の白磁器 |
南宋時代の白磁器 |
金時代の花びん |
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写真:東京国立博物館 | |
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3.元の中国統一 |
1125年に遼が滅亡すると、モンゴル部族のテムジンが1206年に部族長の集会(クリルタイ) で君主となるハンの位につき、チンギス=ハンとなり、モンゴル帝国をたてた。チンギス=ハン は千戸とよばれる全民族を1000戸単位に編成した軍事・行政組織をつくり、その軍事力で西 夏を滅ぼした。チンギス=ハンの死後も勢力を強め、金を滅ぼし、華北を領有した。
さらにドイツ・ポーランドの連合軍をワールシュッタットの戦いで破るなど、ヨーロッパ世界に まで脅威を振るった。
13世紀の半ば、中国北部からロシア、イランにいたるまでモンゴル帝国が支配するようにな ると、中央アジアではチャガタイ=ハン国、南ロシアではキプチャク=ハン国、イラン・イラク ではイル=ハン国といったチンギス=ハンの子孫が地域の政治を行い、大ハンのもとに連合 する政治体制をとった。
5代目に皇帝に即位したフビライ=ハンは都を大都(現在の北京)に定め、国名を元とし、南宋 を滅ぼして中国全土を支配するにいたった。
フビライ=ハンはさらに東南アジアや日本にも遠征軍を送ったが、大半は失敗に終わるもの が多かった。
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金〜元時代のつぼ |
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元時代の白磁器 |
写真:東京国立博物館 |
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元の中国統治は、伝統的な中国の官僚制であったが、実際は中央政府にいるモンゴル人を中心に政策が 決定されていた。
元はモンゴル帝国の初期のころから交通路整備と治安の確保を行い、駅伝制とよばれる大都を中心とする 幹線道路に駅を設けて、その周辺の住民から馬や食料を調達させる方法をとった。こうした交通路を使い、イ スラム教徒の商人(ムスリム商人)らによって東アジアからヨーロッパまでの陸路による貿易がさかんに行わ れた。
また、杭州、泉州、広州といった港市が繁栄し、大都と江南を結ぶ大運河の補修や長江下流から山東半島、 大都に至る海運も整備された。
貨幣は、交鈔とよばれる紙幣が発行され、主要な通貨として使われるようになった。
交通路の整備やモンゴル帝国・元の勢力拡大はヨーロッパに大きな関心を高めさせ、ローマ教皇やフランス王 などは使節を送るようになった。中でも、イタリアのマルコ=ポーロは元に使え、その体験談である「世界の記述 (東方見聞録)」はヨーロッパに影響を与え、日本は黄金の国ジパングとして紹介された。
14世紀になると、モンゴル帝国は天災を原因に内紛がおこり、チャガタイ=ハン国がイル=ハン国にまで領土 を広げ、キプチャク=ハン国は内紛で統合がゆるむと、モスクワ大公国が勢力をのばすようになった。
元も内紛や飢饉などによって各地で反乱がおこり、1368年、明の軍隊によって大都をうばわれると、モンゴル 高原に退いた。 | |
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確認問題 |
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