■ Hello School
社会科 歴史(ハロ歴) No.22 西アジア・ヨーロッパの古代文明 ■ |
インターネットで歴史の勉強をしよう♪ |
解説ページで勉強したら、標準問題も解いて知識を定着させてね♪ |
|
1.エジプト文明 |
エジプトのナイル川は、毎年7月から10月にかけて増水や洪水がおこり、上流から肥えた土が下流に運ばれ、 平野部では農業が発達した。各地にノモスとよばれる小さい村落または国家ができたが、治水や灌漑のために、 国々が協力する必要が生まれ、国と国とが統合しあい、今から約5000年前の紀元前3000年ごろに、ファラオ を王として、ナイル川流域を1つにまとめたエジプト王国が誕生し、その文明をエジプト文明という。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ナイル川によるエジプト文明を「エジプトが輝いたのはナイルのたまもの」と 表現した。
エジプトでは、王は「神の子」として政治や宗教など強い権力をもち、少数の神官や役人も貴族として土地を 与えられたが、大部分の住民は農民や奴隷で、租税や灌漑水路・神殿・ピラミッド建設のために無償で労働が 課せられた。
その後、エジプト王国はペルシャに滅ぼされる紀元前525年までに26の王朝が交代しながら統一された時代 が続き、大きく古王朝、中王朝、新王朝の3つの時期に区分される。
| |
古王朝の時代、クフ王らがナイル川の谷の豊かな石材を使って、巨大な神殿やスフィンクス、自分の墓とし てのピラミッドを建設させたとされ、神である王の権力を示している。新王朝の時代になると、太陽神ラーを中 心とする多神教が首都テーベの守護神アモンの信仰と結びつき、アモン=ラーの信仰が主流となっていった。 エジプト人は、死後も魂は生き続ける霊魂の不滅と、いずれその魂はもとの体にもどると信じて、ミイラをつく り、「死者の書」というものを残した。
エジプトは、ナイル川の洪水の時期やそれによる農業のために天文学が発達し、1年を365日とする太陽暦 がつくられ、それにともない測量術も発達した。碑文や墓室・石棺に刻まれる絵文字(象形文字)が発明され、 この他にもパピルスという植物の茎を剥いでつくった紙を使用して文字を書いた。
太陽暦はのちにローマのユリウス暦となり、その測量術はギリシャの幾何学ともとになり、パピルスは英語の pqperの語源となった。
|
| |
|
2.メソポタミア文明 |
「メソポタミア」という言葉は、チグリス・ユーフラテス川の「大河にはさまれた 土地」という意味で、紀元前4000年ごろから灌漑農業が発達し、紀元前3500年 ごろ、人口が急激に増加した。神殿を中心とする多くの村落ができ、文字の発明 や青銅器などの金属器が普及していった。メソポタミアにいた人々をシュメール 人という。
紀元前3000年ごろになると、村落は都市へと発展し、シュメール人を中心に いくつかの都市国家が形成されていった。
都市国家では、神官や役人、軍人などが神をまつり、政治・経済・軍事を行い、 人々支配する階級社会が成立していった。
都市国家は競争や戦争を繰り返し、優秀な都市国家が生まれたが、紀元前 2500年ごろ、国が衰え、アッカド人に征服された。
アッカド人はメソポタミアやシリアを統一したが、やがで滅亡し、アムル人が征 服し、バビロン第1王朝(古バビロニア王国)をおこした。ハンムラビ王のときに メソポタミアを統一し、治水と灌漑のために運河の大工事を行うとともに、ハンム ラビ法典を発布して、法による政治を行った。
|
|
古代のエジプトと西アジア
|
●…ハンムラビ王の領土 |
|
ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」という復讐法の原則による刑法 を定めたが、刑罰は身分によって異なった。
メソポタミア文明の特色は、エジプト文明と同様に、多神教で天文学が発達し ていたが、月の満ち欠けをもとにする太陰暦を用い、1週を7日とする七曜制が 行われ、角度や時間をはかる60進法が考え出された。文字は粘土板などにシュ メール人がはじめたくさび形文字が書かれた。
|
|
くさび形文字
写真:東京国立博物館 |
|
|
紀元前1600年ごろ、現在のトルコでは、鉄器を使用したヒッタイト人がバビロン第1王朝を滅ぼし、鉄器は紀元前 1000年ごろまでには広く使われるようになった。
紀元前1100年ごろ、現在のシリアの地方では、フェニキア人が海岸沿いに都市国家を建設し、地中海沿岸の 各地と貿易を行っていた。彼らは22字の表音文字を発明し、現在のアルファベットのもととなった。
また、紀元前1000年ごろには、現在のイスラエルのパレスチナ地方で、ヘブライ人がエルサレムを都とした王国 をつくり、ヤハウェ(エホバ)を神とするユダヤ教をおこし、ユダヤ人とよばれるようになった。
| |
紀元前2000年ごろにメソポタミアの北部でおこった アッシリア王国は鉄製の武器や戦車・騎兵隊などの 強力な武力で、紀元前7世紀前半にはメソポタミアか ら一時はエジプトまで支配した。
しかし、重税と圧制により、紀元前612年に従属民 の反抗によって崩壊した。
その後、イラン高原におこったペルシャは、紀元前 6世紀半ばにアケメネス朝がおこり、その第3代にあ たる国王ダレイオス(ダリウス)1世は、紀元前500年 ごろ、東はインダス川流域から西はエジプトにいたる 大帝国、ペルシア帝国を建設した。 |
|
|
−ペルシャ帝国の領土 |
|
ダレイオス(ダリウス)1世は、サトラップとよばれる知事と「王の目」、「王の耳」とよばれる監察官をおいて中央 集権化をはかり、また、「王の道」とよばれる国道も建設して駅伝制を整備していった。
ペルシア帝国はその後、紀元前5世紀前半にペルシア戦争でギリシャに敗れ、紀元前330年にはアレクサンド ロス(アレキサンダー)大王に征服された。 | |
|
3.地中海の文明 |
紀元前3000年ごろから、オリエントの影響を受けて、 東地中海のエーゲ海を中心に青銅器文明がおこり、 エーゲ文明という。はじめはクレタ島で栄えたが、城 壁をもたない開放的な海洋民族であった。
紀元前2000年ごろにギリシャ人が北方から移住し、 紀元前16世紀ごろに、ギリシャ本土でミケーネ文明 がおこして、軍事力を背景にエーゲ海のまわりを進出 し、紀元前15世紀にはクレタに侵入し、小アジアのトロ イヤ(トロヤ)まで勢力を広げていった。
しかし、紀元前1200年ごろ、ミケーネ文明は突如とし て破壊され、その後は暗黒時代とよばれる時代が続い て、青銅器文明から鉄器文明に移行していった。
紀元前8世紀ごろ、ギリシャ人は山あいや川沿いに その地の有力者である貴族のもとに集落が連合し、 ポリスとよばれる都市国家を建設していった。
|
|
ギリシャの世界
|
|
ポリスは城壁で囲まれた都市地域とその周囲の田園から成り立ち、アクロポリスとよばれる都市の中心は砦 であると同時に神殿が建てられた。その近くのアゴラとよばれる広場では、市場や市民の政治の場や議論の 場にもなった。
紀元前5世紀前半に、ペルシア帝国の大軍が攻めてきたが、アテネをはじめとするギリシャのポリスはマラトン の戦いやサラミスの海戦といった戦いで勝利し、ペルシア軍を撃退した(ペルシア戦争)。
アテネでは、民主政治が発達し、アゴラとよばれる広場で民会を開き、奴隷・女性・外国人以外の全員が参加 して政治を決定する直接民主制が行われた。アテネの民主政治をデモクラチアといい、ペルシア戦争後の紀元 前5世紀後半に全盛を迎えた。
| |
ギリシャの文化は、市民が対等に議論するポリスの精神風土をもとに、自由と 真理を愛し、人間の尊さと力を信じ、人間や自然を知ろうとする合理的で人間中 心の文化を生みだした。
「なんじ自身を知れ」と教えたソクラテスやその弟子のプラトン、プラトンの弟子 のアリストテレスといった哲学者が活躍し、ペルシア戦争の歴史を書いたヘロドト スは「歴史の父」とよばれ、ホメロスは叙事詩をつくった。
自然科学では、ピタゴラスによってピタゴラスの定理が発見された。建築物として はパルテノン神殿、彫刻では、ミロンの作品がそれぞれ代表的であり、ギリシャの 文化遺産は西洋近代文明の模範となった。 |
|
|
|
| |
紀元前5世紀の後半になると、アテネとスパルタで戦争がおこり、スパルタが勝利をおさめたが、スパルタもすぐ に衰え、その後、ギリシャはポリス同士で互いに争うようになった。
紀元前4世紀後半、北方のマケドニアが勢力を強め、アレクサンドロス(アレキサンダー)王のとき、ペルシャ帝 国を滅ぼし、ギリシャ・エジプトからインド北西部・中央アジアにわたる大帝国を築いた。
アレクサンドロスはギリシャの文化を広め、エジプトや西アジアの文化と融合され、ヘレニズム文化とよばれる 文化を各地で生み出した。美術ではミロス島のビーナス像が、自然科学では物理学のアルキメデスや数学の ユークリッドが代表的である。ヘレニズム文化はのちにシルクロードを通じて中国や日本の文化に影響を与えた。 | |
|
4.ローマの世界 |
紀元前1000年ごろ、古代イタリア人がイタリア半島に移住し、 そこで定住し、都市国家ローマが誕生した。
ローマは、はじめは王に支配されていたが、紀元前6世紀に 王を追放し、元老院とよばれる会議を通じて貴族による共和 政治が行われていた。
ローマは元老院のもとで、中小農民の重装歩兵を軍事力に 周辺の都市国家を征服し、紀元前3世紀前半にはイタリア半 島を支配した。
その後、フェニキア人のつくった植民市カルタゴとポエニ戦 争とよばれる戦争をおこし、勝利したローマは西地中海沿岸 を支配し、さらに東地中海にも進出し、紀元前2世紀半ばには 地中海全体をほぼ制覇した。 |
|
紀元前2世紀ごろのローマ
−…ローマ帝国の最大領土 |
|
こうした動きの中、ローマは貴族による元老院による伝統的支配派と平民による共和政治派とに分裂し、「内乱の 1世紀」とよばれる時代に入った。
こうした社会不安をしずめたのが、カエサル(シーザー)であった。独裁的な政治によって、紀元前46年に天下を 統一したが、独裁者の勢いをみせたため、部下のブルートゥスに暗殺された。
さらに、オクタビフヌスは元老院からアウグスツス(尊厳者)の称号を与えられ、実質的な皇帝の位につき、ローマ はローマ帝国となった。これ以降、ローマは200年間、「ローマの平和」とよばれる時代が続き、五賢帝とよばれる 帝政時代は最盛期を迎えた。
紀元前1世紀の終わり、パレスチナで生まれたイエス=キリストは、当時律法を形式的に重んじるユダヤ教を批判 し、貧富の差に関係なく神の絶対愛と隣人愛を説いた。イエスの教えはローマ帝国に対する反逆とみなされ、イエ スはエルサレムで十字架にかけられ処刑された。その後、弟子のパウロやペテロらによって伝道活動が行われ、 民衆はイエスを救世主(メシア)と信じるようになった。こうしてキリスト教がおこり、イエスの教えは2世紀ごろに「新 約聖書」にまとめられた。
ローマ帝国は3世紀ごろ、五賢帝の最後の皇帝のころからくずれはじめ、皇帝が即位しても殺害される「軍人皇帝」 とよばれる時代に入っていった。
313年、コンスタンティヌス帝は、ネロ帝からディオクレティアヌス帝まで迫害してきたキリスト教をミラノ勅令によっ て公認し、国内の統一を図ったが、国内の反乱は続き、375年から始まるゲルマン民族の大移動は帝国内部の混 乱を加速させていった。
テオドシウス帝は、392年、キリスト教を国教とし、ほかの宗教を禁じた。その後、自分の2人の子どもに帝国を東西 に分け与え、コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国は比較的長く健在し、1453年まで続いた。その一方、 ローマを首都とする西ローマ帝国は476年、ゲルマン人によって滅亡させられた。
ローマの文化はギリシァの精神文化を取り入れつつ、ギリシャの技術や知識を実用面で発揮した。特に土木・建築 技術では、公共浴場・凱旋門・闘技場・道路・水道橋などがつくられ、コロッセウム(円形闘技場)・パンテオン(万神殿)・ アッピア街道などの遺物も数多く残されている。
ローマ人の使ったラテン語は世界の共通語となり、またローマ字は世界の共通の文字となった。さらに、ローマの 法律は6世紀に東ローマ帝国で「ローマ法大全」としてまとめられ、ローマが多種多様の民族を支配する際に、万民に 納得できる普遍的な法律となっている。 また、カエサルが制定したユリウス暦は1582年にグレゴリウス暦に受け継がれ、現在も用いられている。
| |
|
確認問題 |
Top Page 歴史ページ目次 |