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社会科 歴史(ハロ歴) No.13 明治時代 (1) ■ |
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1.明治維新 |
15代将軍の徳川慶喜は、大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したが、朝廷は行政能力をもっていなかったため、 新政府の下で旧幕府が実質的な政治を行う予定であった。しかし、薩摩藩や長州藩、岩倉具視ら一部の公家で ある倒幕派は、1867年に徳川慶喜や徳川派の公家を排した王政復古の大号令を出した。
主な内容として、 天皇中心による新政府を発足させる。 将軍・摂政・関白を廃止すること。 徳川家の領地を朝廷に返上すること。 など旧幕府を廃して、薩長派による新体制の政治であったため、旧幕府との間で衝突が起き、戊辰戦争へと発展 していく。
戊辰戦争は、1868年に京都の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍で戦いがはじまり、翌年の江戸城の無血開城、 函館の五稜郭の戦いまで続き、終始、新政府軍が勝利していった。
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1868年、戊辰戦争の最中に、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らを中心とする新政府 は、明治天皇が神に誓うという形式で、明治政府の5つの政治方針である、5か条の御誓文 を出すと同時に、国民に対しては、人民の心得を示したものを5枚の立て札で掲げた。これ を五傍(ごぼう)の掲示という。ただし、その内容は、一揆やキリスト教の禁止など、江戸時代 とほとんど変わらなかった。
また、年号を明治改め、江戸を東京と改名し、翌年の1869年には、都を京都から東京に 移した。
新政府は、命令を全国にゆきわたらせるように、中央集権化を図り、1869年に、藩の領地 (版)と人民(籍)を朝廷に返す版籍奉還を行った。しかし、旧藩主が知藩事としてもとの藩を 治めたので、あまり効果がなかった。 |
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西郷隆盛
上野公園 |
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そこで、新政府は1871年、藩を廃して、府・県をおき、中央政府が任命する府知事と県令を派遣する廃藩置県を 行い、中央集権体制を整えた。
また、江戸時代にあった士農工商の身分制度を廃止し、四民平等の身分制度に変えた。これにより、国民は職業 や住居は自由に選べ、武士以外であっても苗字を名のることを許された。 しかし実際は、天皇一族は皇族、公家・大名は華族、武士は士族、農工商は平民という新しい身分制度を生むこ とにもなった。 | |
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2.日本の近代化 |
新政府はヨーロッパやアメリカに追いつくために、近代産業をおこして国力をつけ(殖産興業)、軍備の強化して 強い軍隊をつくる富国強兵を目標に掲げた。
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近代産業の推進として、国の費用で外国から機械や技師を取り入れ、各地に紡績、 造船、兵器製造などの官営工場をつくり、鉱山も経営した。
群馬県の富岡製糸場は、フランスから技師を招き、その指導の下で、士族の女子 を女工として集め、近代的熟練工を養成するとともに、質の高い生糸を生産し、海外 に輸出していった。
また、東京の新橋と横浜の桜木町の間に最初の鉄道が開通した。のちに、大阪と 神戸間、大阪と京都間にも鉄道が開通した。
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富岡製糸場
列島宝物館 |
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通信では、前島密(ひそか)が1871年に近代的官営事業として郵便事業を創設し、全国各地に郵便局を置き、 郵便箱の設置、郵便切手の発行、郵便配達夫の採用を行い、全国に郵便網を広げ、郵便制度を整えた。 1869年、東京・横浜間に電信線を架設し、電報を開始し、1889年では、東京・熱海間で電話を開始。1900年に 新橋・上野駅に公衆電話が設置された。
北海道に開拓使を設置し、失業した士族や生活に困った農民を屯田兵としてロシアに対する警備と北海道の 開拓にあたらせた。その一方で、アイヌ人の土地を取り上げたり、日本語を使わせ、日本式の名前をなることを 強制した。
1872年にフランスの方法を取り入れた学制を出し、国民皆学・教育の機会均等など国民の開明化を明示して、 近代的教育制度を定めた。小学校(尋常小学校)を創設し、6歳以上のすべての男女に4年間の義務教育を受 けさせた(のちに6年になる)。また、同時に中学校(上等・下等で7年)・大学校も創設された。 しかし、農村では就学によって働き手が失うこと、授業料も自分たちの負担となり、明治初期の就学率は男女 平均で3分の1以下であった。 1873年には、徴兵令を出し、満20歳以上の男子は兵役のにつくことを義務づけた。
政府は全国の土地を調査し、土地の所有者と地価を決めて、その確認書である地券を所有者に発行した。それ に基づき、1873年から、土地所有者が豊作や凶作に関係なく地価の3%を租税として現金で納めさせた。この 税制改革を地租改正という。この改正によって、今までの不安定な年貢による税収から安定した税収がかわった。 しかし、これに反対する一揆が多く、また大規模なものとなり、政府は1877年に3%から2.5%に引き下げた。 | |
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3.維新政府の外交 |
1871年、岩倉具視を団長とする使節団をヨーロッパ・アメリカの欧米諸国に派遣し、制度や文物を視察させた。 この段階では、不平等条約の改正の交渉はできなかった。
同じ年に、清との間に日清修好条規を結び、関税の最低率と領事裁判権をお互い認め合う、初の平等条約で あった。
1875年、日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で威嚇行為を行い、砲撃を受ける江華島事件が起こり、その翌年、 朝鮮との間に日朝修好条規が結ばれた。日本が領事裁判権の承認と関税自主権を獲得し、不平等条約であった。
ロシアに対しては、1855年の日露和親条約で国境を千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間とし、樺太は 国境を定めず雑居地としていたが、1875年、日本は樺太を放棄してロシア領にする一方、千島列島全島を日本 の領土とする樺太・千島交換条約を結んだ。
1876年には、小笠原諸島が日本の領土であることを英米に通告した。また、沖縄については、1871年に鹿児島 県に編入し、翌年には沖縄藩を置き、1879年に沖縄県とした。 | |
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4.文明開化 |
欧米との関係が深まる中、国民の生活に西洋風の文化が入るように なり、人々はちょんまげを切り、洋服、帽子、靴を身につけ、赤レンガの 洋館やガス灯、人力車や馬車が通る都市に行き、ビールや牛肉を食べ るといった、今までの生活や文化が大きく変わり、これを文明開化という。
人力車の発明によって、江戸時代に使われ ていた駕籠(かご)は急速に衰退していった。
また、江戸時代まで使われていた太陰太陽暦 (旧暦)を廃して、太陽暦を採用した。1日を24 時間、週7日制で、日曜日を休日にした。
レールの上を馬車が走る鉄道馬車は日本橋・ 新橋間に開通したが、1903年に鉄道が敷かれ てからは衰退していった。 |
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人力車(神奈川県鎌倉) |
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福沢諭吉が著した「西洋事情」や「学問の すゝめ」は、海外事情を紹介すると同時に個 人の自立や人格の尊厳を主張し、西洋文明 を取り入れ、近代化を目指す明治の思想に 適合しており、このような思想を啓蒙思想と いった。明六雑誌はその啓蒙思想の紹介や 宣伝に貢献した。
都市部では文明開化による変化があったも のの、農村では江戸時代とほとんど変わらな い生活が続いていた。
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福沢諭吉
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写真:東京国立博物館 |
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主な文明開化の進展 |
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年 |
できごと |
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1868 |
ホテルが開業する |
1869 |
電信が敷かれる |
1870 |
人力車が発明される 日刊新聞が発行される |
1871 |
郵便制度ができる 牛肉が食べられ始める |
1872 |
学制が発布される |
1873 |
太陽暦が採用される ガス灯が使われる 鉄道が開通する 「学問のすゝめ」が出版される |
1874 |
明六雑誌が発行される キリスト教が許可される |
1876 |
廃刀令が出される |
1877 |
電話の使用が始まる |
1882 |
鉄道馬車が開通する | |
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標準問題 |
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