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社会科 歴史(ハロ歴) No.12 江戸時代 (3) ■ |
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1.鎖国から開国へ |
18世紀の末ごろから、ロシアの船が日本に接近するようになり、1792年には、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、 幕府に通商を求めてきたが、鎖国の日本はこれを拒否した。
1804年には、ロシア人のレザノフが再び日本との通商を求めてきたが、日本はこれもまた拒否する。
ロシアの接近にともない、幕府は蝦夷地を直轄し、間宮林蔵らに千島・樺太を調査させ、間宮海峡を発見する。
英仏戦争の影響を受け、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ(当時はフランスの属国)の船を捕獲の目的で長崎湾 に進入し、燃料や食料を強奪していった。これをフェートン号事件といい、これ以降も外国船が日本の近海で問題を起こす ようになり、幕府は1825年、清とオランダ船以外の船は撃退する外国船打払令を出した。
1837年、アメリカのモリソン号は漂流民返還と通商を目的に日本に来航したが、外国船打払令のために、撃退される モリソン号事件が起き、この事件を批判した渡辺崋山や高野長英らを幕府は処罰した。これを蛮社の獄という。
1840年、清がアヘン戦争でイギリスに破れ、不平等条約である南京条約を結ばれたことから、幕府は外国船打払令の 危機と海外情報の収集の必要性を知り、1842年、水野忠邦の下で、外国船打払令を緩和して、薪水給与令を出した。 1853年、アメリカの使節ペリーが神奈川県の浦賀に4隻の軍艦を率いて来航し、開国をせまった。幕府は大名の意見 を聞くとして、結論を出さなかった。
翌年の1854年、再びペリーが日本に来航し、幕府との間に日米和親条約を結ぶ。 この条約によって、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港が開港し、アメリカ船に必需品の供給などを約束し、約260年 続いた鎖国が終わった。
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このころから、天皇をうやまい(尊王)、外国を打ち払おう(攘夷)とする尊王攘夷運動がさかんになってくる。 | |
1858年には、大老の井伊直弼が天皇の許可 を得ずに、アメリカ総領事であったハリスとの間 で日米修好通商条約を結び、函館、新潟、神奈 川、兵庫、長崎の5港を開港し、貿易が行われ た。
ついで、オランダ、ロシア、イギリス、フランス とも同じような条約を結び、これを安政の五か国 条約という。
これらの通商条約は、治外法権(領事裁判権) を欧米諸国に認め、関税自主権がない不平等 条約であった。
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治外法権 日本国内で外国人が犯罪をしても、日本の 裁判所で裁判ができず、その国の領事が裁判 する権利のことで、日本に不利な場合が多かっ た。
関税自主権 輸入品の関税率を決めることができる権利の ことで、この権利がない場合、外国から安い商 品が国内で流入することになり、国内産業に とって不利になる。 |
| 開国後の日本の主な輸入品は毛織物、綿織 物、武器、軍艦、などで、主な輸出品は生糸、 茶、蚕卵紙、海産物などであった。 |
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開国に関係する港
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生糸や茶の輸出に増加により、生産が追いつかず、国内では品不足が生じたため、物価が上がり、生活を苦しめる ことにもなったので、幕府に対する反感も生まれてきた。 | |
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2.江戸幕府の滅亡 |
井伊直弼の専制に不満が高まり、それらに反対した尊王攘夷派の吉田松陰や松本左内らを直弼は処罰し、これを 安政の大獄という。 このため、直弼は1860年、江戸城の桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。
尊王攘夷派は、欧米列強の力を見せつけられていくうちに、攘夷をあきらめ、天皇中心の政治と倒幕へと考え方を 変えていく。 |
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長州藩 |
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薩摩藩 |
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1863年、攘夷を理由に、下関を通過するアメリカ、フランス、 オランダの艦隊を砲撃。これを下関事件という。
その翌年の1864年、下関事件の報復として、イギリス、フラ ンス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、 下関砲台を占領した。 この事件により、長州藩では開国を主張するようになった。 |
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1862年、薩摩藩の島津久光の江戸からの大名行列の 際に、横浜の生麦でイギリス人が行列に対して非礼な行 為をしたとして、殺傷する生麦事件が起こる。
翌年の1863年、その報復として、イギリス艦隊が鹿児島 に来航し交戦する薩英戦争が起き、薩摩藩は攘夷の無謀 を知り、交戦の講和以降、両者は接近していった。 |
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生麦事件跡 |
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長州藩と薩摩藩は、攘夷論や公武合体論(朝廷と幕府の提携による政治)など、それぞれの考え方と立場があり、対立して いたが、1866年、土佐藩(高知県)の坂本竜馬の仲立ちで薩長同盟が結ばれ、この同盟によって、長州藩の木戸孝允、高杉 晋作、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らを中心に、尊王攘夷から倒幕の運動がはじまる。
民衆の動きとしては、1856年、岡山藩の士農工商よりも低い身分の人たちが、日ごろの差別に加え、着物の色にも差別しよう としたため、一揆を起こし、その命令を取り消させる渋染一揆が起きた。
また、開国による物価上昇で生活苦を強いられていた農民や町人は、新しい政治を期待して「世直し」をさけび、世直し一揆や 打ちこわしを行うようになり、1867年には、伊勢神宮を初めとする神々のお札が空から降ってきたとして、「ええじゃないか」と 言いながら乱舞した。
幕府はついに、1867年、倒幕派との内戦を避け、新しい政治体制のもとで幕府の実権を保つことをねらい、元土佐藩主の 山内豊信の意見を受け入れ、15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返す大政奉還を行った。これにより、約260年続いた 江戸時代が滅び、約700年続いた武士による時代が終わった。 | |
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3.産業の発達 |
農村では、農民は農業を営む合間に、副業として手工業品を作ることもあった。これを農村家内工業という。
18世紀になると、問屋商人が原料や器具を農民に前貸しし、製品を買い上げるようになり、絹織物業や綿織物業を中心に 19世紀にかけて発達していった。これを問屋制家内工業という。
19世紀になると、農村や町などから労働者を工場に集めて、分業による手工業生産を行うようになった。大阪周辺や尾張 の綿織物業や桐生(群馬県)・足利(栃木県)の絹織物業、川口(埼玉県)の鋳物業などにみられ、工場制手工業(マニュファ クチュア)という。 | |
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