武士や庶民は学問を学ぶようになり、学問の発達がみられた。 多くの武士は、主人に忠誠を重んじ、親に孝行する上下関係の道を説く儒学を学び、中でも、忠義や孝行 を重んじ、身分の上下関係を大切する朱子学は封建社会に適していたことから、幕府にとりたてられた。 昌平坂学問所のような幕府の学校や藩で運営する藩校もつくられ、朱子学を中心に教育が行われた。
庶民では、江戸時代の中ごろから、浪人や僧による寺小屋がつくられ、農民や町人の子どもに「読み・ 書き・そろばん」などを教えた。江戸時代の末期には、1万以上の寺小屋がつくられた。
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新しい学問として、江戸時代の中ごろに、仏教や儒教が伝わる以前の日本人の思想を明らかにしようと する国学が生まれ、本居宣長は「古事記」や「万葉集」を研究して「古事記伝」を著し、国学を大成した。 |
8代将軍の徳川吉宗がキリスト教以外の洋書の輸入を緩和したため、 オランダ語を通じて西洋技術や文化を研究する蘭学が発達し、のちに 洋学とよばれるようになった。 杉田玄白と前野良沢らは、オランダの人体の解剖書である「ターヘル =アナトミア」を日本語に訳して「解体新書」を著した。 平賀源内は寒暖計や静電気を起こす発電機であるエレキテル(起電機) を発明した。 伊能忠敬は西洋の天文学や測量術によって、現在の地図とほとんど 変わらない正確な日本地図である「大日本沿海輿地全図」をつくった (完成は忠敬の死後)。 オランダ商館医であったシーボルトは、長崎の郊外に鳴滝塾を開き、 医学を教えたが、国外持ち出し禁止の日本地図を入手したため(シー ボルト事件)、国外追放された。
この他にも、水戸(茨城)藩主であった徳川光圀が命じた「大日本史」に よる歴史学や、高等数学の理論を展開した関孝和の和算、農作物の栽培 技術を紹介した宮崎安貞の「農業全書」などがある。
11代将軍家済のころ、江戸の町人を中心に「滑稽(こっけい)」や「皮肉」 を好んだ文化がさかんとなり、化政文化とよばれる。
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解体新書の扉絵
国立歴史民俗博物館
伊能忠敬
富岡八幡宮(東京都)
深川江戸資料館(東京都)
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文学では、十返舎一九が、喜多八と弥次郎兵衛の2人を主人公に、 東海道で旅道中をしながら、庶民の生活をこっけいに描いた「東海道 中膝栗毛」があり、滑稽本とよばれた。。また、読本とよばれる読む 文章を主体とする小説のようなものがあらわれ、滝沢馬琴が勧善懲悪 (善が悪をこらしめる)を主張した「南総里見八犬伝」を残した。
俳諧では、元禄文化の松尾芭蕉の後、新しい歌風が生まれ、与謝蕪村 や小林一茶が活躍した。他に、川柳は俳諧の形式で、狂歌は短歌の 形式で、世の中を皮肉る作品も生まれた。
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滝沢馬琴 |
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絵画では、浮世絵が多色刷りされ、喜田川歌麿の美人画や葛飾北斎の「富獄三十六景」、安藤広重の 「東海道五十三次」が生まれた。 |
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