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社会科 歴史(ハロ歴) No.10 江戸時代 (1) ■ |
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1.江戸幕府の成立としくみ |
三河(愛知県)の小大名の子として生まれた徳川家康は、織田信長と豊臣秀吉の全国統一を たすけ、江戸(東京)を拠点としていた。
秀吉の死後、家康は豊臣氏をもりたてようとする石田三成と対立し、1600年、関ケ原の戦いで 三成を破り、全国の大名を従えた。
1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開き、1867年までの約260年間を江戸 時代という。
幕府は、全国の約4分の1を直接支配する幕府領(天領)と大名領(藩)、皇室、寺院・寺社の 領地に分け、幕府の命令を守らせながら土地と人民を支配させた。これを幕藩体制という。 幕府領は全国の石高の約15%を占め、江戸・大阪・京都・長崎などの主要都市のほか、佐渡・ 生野などの主要鉱山も幕府領としていた。
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江戸時代中期頃の人口の割合
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幕府は大名を、徳川氏一族である親藩、関が原の戦い以前から徳川氏の味方であった譜代、関が原の戦い以降に徳川氏に したがった外様の3つに分け、関東、東海、近畿などの重要な地域には譜代、遠くて不便な地域には外様を配置した。また、親藩 では、尾張藩(愛知県)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)を御三家とよんだ。 また、将軍が直接支配する家臣を旗本・御家人といい、旗本は領地が1万石に満たない者で将軍に会える者で、江戸時代中期 ごろには約5000人ほどいた。御家人は将軍には会えず、領地はもらえず、幕府から米を支給される下級の武士で、江戸時代中期 ごろには約17000人ほどいた。
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家康は、将軍職を子の秀忠にゆずった後、1614年に大阪冬の陣で大阪城の豊臣秀頼を攻め、 翌年の1615年に大阪夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼした。
同じ1615年、秀忠は、大名をとりしまる法律として武家諸法度を定め、新しく城を築くことや幕府 の許可なしで大名が結婚することを禁止させ、これに反した大名は領地を取り上げられ、家もとり つぶした。 また、朝廷に対しては、禁中並公家諸法度をだして、天皇は政治に関与せず、学問に励むよう にさせた。
さらに、家光が3代将軍になると、参勤交代が制度化され、大名の妻子を江戸に住まわせ、大名 は1年ごとに領国と江戸を往復させた。大名行列や江戸の藩邸の経費を使わせて、大名の財力を 弱めさせ、幕府に反抗しないようにさせることが目的で、反面、江戸や宿駅の繁栄をもたらした。 この頃に、江戸幕府のしくみが整っていく。 |
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大阪冬の陣
国立歴史民俗博物館 |
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参勤交代
江戸東京博物館 |
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江戸幕府のしくみ
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重要な役職には、徳川氏の家臣である譜代や旗本がつき、外様はそうした役職にはつけなかった。
身分制度は、士農工商とよばれる支配が行われ、士である武士は苗字と帯刀が許され、「切捨て御免]という特権が与えられた。 また、士農工商よりも低い身分も存在した。(士…武士、農…農民、工…職人、商…商人)
農民の支配として、5戸を1組に、1戸でも年貢を納めないと他の4戸も罰する五人組の制度を整わせ、連帯責任で年貢を 納めさせた。また、1649年には慶安のお触書を定め、農民の地上生活を厳しくし取りしまったり、年貢の確保のために、田畑の 売買を禁止したり、米以外の作物の栽培を制限した。 農民は収穫の4〜5割の年貢を納め、四公六民または五公五民とよばれた。 農民はさらに、検地帳に土地所有者として記載される地主・自作農の本百姓と地主から検地帳の記載がなく、土地を借りて耕作 する小作農の水のみ百姓とに区別された。五人組をつくるのは本百姓のみであった。また、本百姓の中から村の責任者で年貢を 代官に納める名主・庄屋、それを助ける組頭が選ばれ、名主・庄屋がきちんと年貢を納めているかどうかを見張る百姓代を設置し た。農民は米以外の年貢のほか、街道近くの村であれば大名行列の際に、馬や人を負担する助郷役とよばれる負担や、将軍の 旅行の際には特別な税を負担した。 | |
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2.鎖国への道 |
幕府は、スペイン人やポルトガル人がキリスト教の布教を通じて日本を占領しようとしているのでは ないかと考え、国内でのキリスト教を取り締まり、1624年にはスペインと国交を断絶し、1635年には 日本人の海外渡航や帰国を禁じた。
秀吉から家光までに、商人に朱印状とよばれる渡航許可の証書をもった貿易船による朱印状貿易 が行われ、主な貿易先である東南アジアで日本町がつくられた。 主な輸入品は生糸、絹織物、綿織物、砂糖など、主な輸出品は銀、銅、硫黄、刀剣などであった。
1637年、九州の島原・天草地方の農民は、こうした禁教と重税から天草四郎時貞を大将に一揆を おこした(島原の乱、島原一揆、島原・天草一揆)。
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御朱印船
国立歴史民俗博物館
島原城
たかさん(フォトライブラリー) |
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1639年には、ポルトガル人の来航を禁止し、これによって鎖国が完成する。
鎖国後の幕府は、キリスト教の布教を行わないオランダと中国(清)だけに長崎で貿易を行い、長崎の出島にオランダ商館 を移した。 |
長崎貿易での主な輸入品は、生糸、絹織物、毛織物、木綿、薬品、人参、砂糖、書籍で、 主な輸出品は銀、銅、金、海産物などであった。
朝鮮とは、対馬の宗氏が貿易を行い、将軍が交代するたびに朝鮮通信使が来日した。
中国・日本・東南アジアとの貿易で栄えていた琉球王国とは、薩摩藩が17世紀の初めに 支配下において、年貢を納めさせ、貿易の利益を独占した。
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生糸
国立歴史民俗博物館 |
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北海道の蝦夷地では、松前藩がアイヌ人に不利な取引を行い、シャクシャインはアイヌ人を率いて松前藩と戦ったが敗れた。 | |
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3.産業の発達 |
陸の交通として、江戸の日本橋を起点に東海道(京都まで)、 中山道(京都まで)、甲州街道(下諏訪まで)、日光街道(日光 まで)、奥州街道(白河まで)の五街道が整備され、治安維持の ために関所を50数ヶ所おいて旅人をとりしまった。 街道には、1里(約4km)ごとに路程標となる一里塚や宿場が つくられ、宿場には大名の宿泊所である本陣・脇本陣、庶民が 宿泊する旅籠(はたご)、茶店、馬やかごなどがおかれた。
海の交通として、日本海側から津軽海峡を通り、江戸に荷物を 運ぶ東回り航路、日本海側から下関を通り、大阪に荷物を運ぶ 西回り航路が開通し、江戸と大阪間に年貢や特産品などをを運 ぶ菱垣(ひがき)廻船や樽(たる)廻船が運行した(菱垣廻船は 樽廻船に押されていった)。
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五街道と海上航路
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白地図テスト |
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商業では、貨幣が大量に出回り、全国で通用するようになると、小判(金)と銀貨を交換し、その手数料を取る両替商が あらわれ、今の銀行にあたるものがでてきた。
また、江戸や大阪の蔵屋敷に運ばれた商品を売る商人もあらわれ、江戸では差札(さしふだ)、大阪では蔵元・掛屋と よばれた。 商工業者は株仲間とよばれる同業者組合をつくり、営業を独占した。商人の中には、三井・住友といった大商人も現れる ようになった。 |
農業では、年貢の収入を増加させるために、新田開発 を進めると同時に、農具の開発も行われた。
土を深く耕せる備中ぐわ、脱穀の能率を向上させる 千歯こき、米の選別農具である千石どおしなどが代表 的である。
この他に、油かすやいわしを干した(ほしか)ものを 肥料として、金銭を払って使われていった。これを金肥 という。 |
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千歯こき
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千石どおし
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備中ぐわ
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米が増産される中、米以外にも綿、麻、なたね、藍などの商品作物の生産もさかんになり、養蚕も広まり、生糸も作られる ようになった。
交通の整備や産業の発展とともに、各地で都市が発達し、宿場町、門前町、港町が形成されていく。特に、「将軍のおひざもと」 とよばれた江戸、朝廷のある京都、「天下の台所」とよばれた大阪は三都とよばれた。
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4.元禄文化 |
5代将軍綱吉の時代のころ、上方とよばれた大阪・京都を中心に、自由な町人の気風を反映した、明るく元気な活気 あふれる文化が栄え、元禄文化という。
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文学・芸能では、室町時代にあった絵入り本の「お伽草紙」を井原西鶴が当時の 町人の生活を描いた小説で、大人向けの浮世草子をはじめ、「日本永代蔵」、 「好色一代男」などがある。 俳諧(俳句)では、松尾芭蕉が、旅日記である「奥の細道」を通して、室町時代に 流行った連歌の最初の五・七・五の部分を独立させ、芸術にまで高めた。 また、人形で劇を演じさせながら、三味線に合わせて物語を進めていく人形浄瑠璃 という芸能が生まれ、脚本作家であった近松門左衛門の義理と人情をテーマにした 「曽根崎心中」や「国姓爺合戦」が代表である。 |
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松尾芭蕉 |
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東京都江東区 |
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美術では、浮世絵とよばれる絵画があらわれ、今までの仏や昔の人物や出来事を描いていた絵画ではなく、当時の人物 や風俗などを描いた。菱川師宣によって大成され、「見返り美人」がその代表である。浮世絵は、はじめは画家が筆で描く 肉筆画であったが、元禄時代になって木版画による大量生産が可能になった。 装飾画では、俵屋宗達の「風神雷神図」がこの文化の中で描かれ、緒方光琳によって大成された。 |
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標準問題 |
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