1950年の朝鮮戦争後、日本経済は大きく成長し、1955年には、一国の経済力の大きさを示す国民総生産は戦前の 水準をこえ、1956年の経済白書には「もはや「戦後」ではない」と表現し、日本は新しい経済局面に入った。白書では その局面の対処を心配したが、1950年代後半から約10年間にわたり、日本は高度経済成長とよばれる経済の発展 が続いた。
1955年から30ヶ月以上の好景気が続き、初代天皇である神武天皇以来の好景気ということから神武景気と名づけ られた。
1958年から40ヶ月以上の好景気が続き、神武景気をこえる大型のものであったことから、天照大神の「天の岩戸」 の神話にちなんで岩戸景気と名づけられた。
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1960年に、池田隼人首相が 経済を発展させ、10年間で所得 を2倍にする国にするという所得 倍増計画を出し、高度経済成長 にはずみをつけ、1964年に東京 でアジア最初のオリンピックが開 かれ、これに刺激されて好景気 がおこり、オリンピック景気とよば れた。
また、鉄道では東京〜新大阪 間に東海道新幹線が、道路では 名神高速道路、東名高速道路が 開通し、交通面で大きく発展した。 それにともない、自動車をもつ人 も増加していった。
生活では、電気洗濯機、白黒 テレビ、電気冷蔵庫の「三種の 神器」とよばれる耐久消費財※ が普及した。
電力では、茨城県東海村に日 本で最初の原子力発電所が建設 され、1963年から運営が行われ た。
1966年から50ヶ月以上の好景 気が続き、岩戸の神話よりも前の 国生みの「いざなぎのみこと」に ちなんでいざなぎ景気と名づけら れた。 |
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東京オリンピックと高度経済成長期につくられたもの |
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開会式のときの服装 |
聖火ランナーの服装 |
ポスター |
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新幹線(写真は山陽新幹線)
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東名高速道路と東海道線 |
マイカーブームをおこした 最初の自動車 |
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電気冷蔵庫 |
白黒テレビ |
完成した頃の東京タワー 1958年完成 |
写真:新幹線は「写真素材
フォトライブラリー」里見光一さん、その他は江戸東京博物館 |
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こうした高度成長を通して、1968年には、資本主義諸国の中での国民総生産がアメリカについで第2位の経済 大国となった。1970年には、大阪で「人類の進歩と調和」をテーマとした、アジアで最初の万国博覧会が開催され、 多くの企業や研究者、芸術家によるパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作が展示され、 経済大国となった日本の象徴的なイベントになった。
※耐久消費財…長期使用にも耐えらる消費財で、自動車・テレビ・家具などが代表的である。
1970年代になると、自動車、カラーテレビ、クーラーの「3C」とよばれる耐久消費財が普及していった。また、国産 の人工衛星が打ち上げれ、1980年代ではコンピュータ技術開発が進み、世界有数の技術大国になった。
その一方で、農業と工業の所得格差が広がり、農業人口が減少し、農業以外からの収入を得る兼業農家が増加 していった。さらに、大都市では人口の過密、農村では過疎化が進んだ。 |
高度経済成長にともない、重化学工業が大きく 発展したが、それと同時に公害も発生した。
富山県の神通川流域では、カドミウムが原因 で骨が折れやすくなるイタイイタイ病とよばれる 病気が発生した。
熊本県八代海沿岸では、化学工場から排出さ れた有機水銀(メチル水銀)が原因で神経がお かされる水俣病とよばれる病気が発生し、同じ ような病気が新潟県の阿賀野川流域でも発生 した。
三重県の四日市市では、石油化学工場の煙 から排出された亜硫酸ガスが原因で、ぜんそく や気管支炎になる四日市ぜんそくが発生した。 |
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四大公害病
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政府は、1967年に公害対策基本法(1993年以降は環境基本法)を制定し、さらに1971年に環境庁(現在は環境省) を設置して公害対策を整えた。
1973年、第4次中東戦争がおきると、主要産油国が結成してつくられたOPEC(オペック:石油輸出国機構)は、石油 の禁輸、減産、価格の引き上げを行った。石油の輸入依存度の高い先進国は経済に大きな打撃を受けた。
日本でも石油価格が大幅に値上がり、トイレットペーパーや洗剤がお店から消え、購入が制限されるなどの混乱が おきた。この混乱を石油危機(石油ショック、オイルショック)という。これ以降、日本経済は低成長が続き、1974年の 国民総生産はマイナス成長となり、高度経済成長期が終わった。
1982年に、中曽根康弘内閣が成立すると、「戦後政治の総決算」のもとに行政改革を行い、今まで国で運営してい た日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道を民営化し、それぞれ日本電信電話(NTT)、日本たばこ産業 (JT)、JRグループとした。 また、女子差別撤廃の方針から、男女雇用機会均等法を1986年から施行し、雇用形態の改変も行った。
1985年に、アメリカの財政と貿易赤字(双子の赤字)を解決するために、ニューヨークのプラザホテルにアメリカや 日本などの五カ国が集まって、ドルの為替相場をドル安にする方向に合意するプラザ合意が行われ、日本は輸入品 を安く買えるようになった。
政府は、国内需要(国内での購買力)を拡大(内需拡大)させようという政策を進め、日本銀行は2.5%という今まで にはない低金利で銀行にお金を貸し出した。
輸入品が安くなったことと、お金(円)を借りやすくなったことで、円が世界市場や国内市場で出回るようになると、 日本国内では、1986年から土地と株を買うようになり、地価と株価が異常な高騰が続いた。資産価格だけが上がり、 実体の成長はその価格成長についてこない現象が起こり、バブル経済とよばれた。 |