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社会科 歴史(ハロ歴) No.17 昭和時代(1) ■ |
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1.第1次世界大戦後の世界経済 |
第1次世界大戦後、世界経済の中心はイギリスからアメリカにうつっていた。しかし、1929年、ニューヨークの 株式市場の株価が暴落し、企業の生産が激減、銀行や工場の休業や倒産が増え、失業者も増大していった。
この不景気はアメリカにとどまらず、世界に影響を与え、世界恐慌とよばれた。各国の政府は自国の利益を 守る政策をとり、国際協調の時代を終わらせることになった。
アメリカはルーズベルト大統領のもとで、政府がダムの建設などの公共事業をおこすことによって、生産を 増やし、国民の所得を増大させていくニューディール政策を行って経済を回復させた。
ソ連は、スターリンの独裁体制のもとで、1928年から5か年計画とよばれる経済体制をつくり、重工業中心の 工業化と農業の集団化による社会主義国家体制を推し進め、世界恐慌をほとんど影響しなかった。
イギリスとフランスは、本国と植民地とのつながりを強め、他国の商品に対しては関税を高めるブロック経済 体制をしいた。そのため、植民地をあまりもたないドイツ・イタリア・日本は経済が苦しくなった。
イタリアは、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握り、独裁体制になると、エチオピアを侵略・併合して 経済の打開を図った。
ドイツは、ヒトラー率いるナチスが政権をとり、他の政党を解散させ、再軍備を強行。さらに、ユダヤ人や社会 主義者らを迫害した。
こうした情勢の中で、1930年代は反民主主義、反自由主義をかがけたファシズムとよばれる全体主義が ヨーロッパで大勢を占めるようになった。 | |
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2.大陸への進出と軍部の台頭 |
日本も第1次世界大戦からの不景気と関東大震災による現金化できない震災手形の増大によって、銀行の 倒産が相次ぎ、1927年には金融恐慌とよばれる不景気となった。
また、世界恐慌の影響を受け、都市では倒産と失業の増大、農村では農作物の価格下落によって生活が 苦しくなり、アメリカに輸出していた生糸が伸び悩み、養蚕業が大きな打撃を受けるなど、不景気が深刻となり、 娘の身売りや、満足に食事ができない欠食児童が多くでて、昭和恐慌とよばれた。
こうした不況に対し、財閥は政党と結びつき、日本経済を支配するようになると、労働争議や小作争議が増え、 政党や財閥に対する不満が高まっていった。
こうした国内情勢に対して、軍部や、個人よりも国家を優位に考える国家主義者は「満州は日本の生命線で ある」として、中国侵略による恐慌打開を図ろうとする動きが見られるようになった。
1930年、軍備を縮小するロンドン会議が開かれると、軍縮条約に対して軍部は強く反対した。
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1931年、中国の関東州と南満州鉄道の警備を任務とする 日本の関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これ を中国側が行ったことにして軍事行動を開始した。
関東軍は満州の主要部を占領し、清朝最後の皇帝である溥儀 (ふぎ)を元首にして満州国を建国し、実権は日本人が握り、 財閥を進出させて大きな利益をあげた。これを満州事変という。
国内では、政治に軍部が口出しするようになり、1932年、 軍部の青年将校が満州国の承認をしぶっていた犬養毅首相 を暗殺する五・一五事件がおきた。この事件により、政党政治 が終わり、軍人が内閣総大臣になることが多くなり、軍部の力 が強まっていった。
国際連盟は、満州にイギリスのリットンを団長とする調査団 を送り、真相を解明すると、1933年、満州国承認の取り消しと、 日本軍の撤兵を総会で決議した。この決議に、日本は国際 連盟を脱退した。
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満州国の位置
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1936年、またもや青年将校が、軍部による政府をつくろうとして、首相官邸や警視庁などを襲撃し、大蔵大臣 を暗殺してクーデタをおこす二・二六事件がおきた。政府は、非常事態に対して軍隊による治安権限を与える 大日本帝国憲法の中の天皇大権の1つである戒厳令を出して、このクーデタを防いだが、この事件以降、軍部 の力が強くなっていった。 | |
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3.日中戦争と第2次世界大戦 |
1937年、中国の北京郊外にある廬溝橋(りょこうこう)で日本と中国の軍隊が衝突する廬溝橋事件がおきる と、これをきっかけに日中戦争が始まった。日本軍は中国の首都である南京を占領すると、何十万人もの中国 人を殺害・略奪行為をする南京事件をおこした。中国は、アメリカ、イギリスの援助を受け、首都を重慶に移し、 蒋介石(しょうかいせき)が率いる国民党軍と毛沢東が率いる共産党軍が手を結んで、日本軍と戦い、戦争が 終わらないまま、太平洋戦争に入っていった。
戦争が長期化する中、1938年、政府は国家総動員法を発令し、強制的に国民や物資を動員できるようにし た。また、戦争による品不足がおき、物資は配給制または切符制となり、国民は物資を自由に買うことができ なくなった。
1939年、ヒトラーが率いるドイツはイタリアと手を結び、イギリス・フランスと戦争となり、第2次世界大戦が 始まった。日本は、翌年の1940年、日独伊三国軍事同盟を結び、同盟国側についた。また、近衛文麿首相 が総裁となって、ナチス=ドイツの一国一党の政治体制にならい、政党を解散させて大政翼賛会が設立され た。大政翼賛会は、労働組合や労働団体をも解散させ、大日本産業報国会を結成して傘下に治め、国民を 一元的に統制していった。
日本は日中戦争が長期化すると、アジアを支配しながら、石油などの軍事物資を確保するために、東南 アジアのフランス領であったインドネシアに軍隊を進め、アメリカとの対立を深めていった。
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1941年、日本はハワイの真珠湾 にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃 して、アメリカ、イギリス、フランス、 ソ連などの連合国と戦争が始まっ た。主な戦場が太平洋であること から、太平洋戦争という。
日本は、最初は戦争に勝利して いたが、1942年のミッドウェー海戦 を契機に敗戦が続き、1943年に、 同盟国であるイタリアが降伏し、 1945年にはドイツが降伏した。 |
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日本の敗戦色が濃くなる中、日本はアメリカの空襲を受け、多くの都市が焼け野原となっていった。特に、 1945年3月の東京大空襲は首都東京に大きな被害をもたらした。
空襲による被害を避けようと、都市の小学生は、地方の小学校へ集団で非難する集団(学童)疎開が 行われた。
日本の兵力が不足し、戦局が悪化してくると、男子学生を戦場に送る学徒出陣や、女子学生や中学生を 工場で労働させる勤労動員が行われた。
1945年4月に、アメリカ軍が沖縄に上陸してくると、日本の軍隊は全滅するとともに、看護要員として動員 されていた女子学生でつくられた「ひめゆり隊」など、県民や兵士合わせて20万人以上の犠牲者を出した。
日本の植民地であった朝鮮では、朝鮮国民を日本に強制連行し、炭鉱や工場などで強制的に労働させ たり、朝鮮国内では、朝鮮民族固有の名前を日本式の名前に強制的に変えさせる創氏改名が行われ、 日本語を話すことや、村ごとに建てられた神社に参拝することを強制させられた。
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、さらにソ連が日本に参戦してきたため、 日本は、8月14日、日本の降伏を通告するポツダム宣言を受け入れ、翌日の8月15日、無条件降伏に 応じた。こうして、日中戦争、太平洋戦争を含む第二次世界大戦が終結した。 | |
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戦時中の家の中 |
東京を空襲するアメリカのB-29 |
東京大空襲 |
学童疎開 |
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降伏調印文書 |
戦時中の小学校の教科書 |
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江戸東京博物館 | |
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標準問題 |
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