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社会科 歴史(ハロ歴) No.16 大正時代 ■ |
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1.第1次世界大戦と日本の経済 |
19世紀のはじめ、ヨーロッパでは、イギリス・フランス・ロシア などの連合国とドイツ・オーストリア・イタリアなどの同盟国で 植民地をめぐって対立していた。
1914年、連合国側のセルビアの青年が、サラエボで同盟国 側であるオーストリアの皇太子を暗殺する事件が起きると、こ れをきっかけに第1次世界大戦がはじまった(イタリアは連合 国側で参戦)。
日本は日英同盟にもとづくことと、中国のドイツ利権を手に入 れるため、連合国側に参戦し、中国や太平洋のドイツ領を攻撃 した。
中国では、1911年、辛亥革命とよばれる民主主義革命が おこり、翌年、清は崩壊し、孫文を中心とする中華民国が成立 した。
日本は、中国山東省のドイツ軍を追い払った後、山東省の ドイツ利権を引継ぎを求め、成立ばかりの中華民国に1915年、 二十一か条の要求を出した。中華民国政府の袁世凱はこれ を認め、利権を拡大した。
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第1次世界大戦の頃のヨーロッパの状況
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…連合国側 |
・・・ |
…同盟国側 (国境は現在の区分) | |
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大戦中、日本はヨーロッパが混乱している中、連合国への軍需品やヨーロッパがもっていたアジアの市場へ製品を大量に輸出 し、好景気となった。特に、造船、海運、紡績業が急成長し、にわかにお金持ちになった成金とよばれる人々が生まれた。これを 大戦景気という。このころから、日本は農業国から工業国へと発展していった。京浜工業地帯や阪神工業地帯ができたのもこの 頃からである。
1917年、ロシアでは、2度にわたる革命(ロシア革命)がおき、ソヴィエト政権という社会主義政権を誕生させた。新政権はドイツ と講和条約を結び、休戦し、第1次世界大戦から離脱した。 しかし、革命の広がりをおそれた各国は、ロシアに出兵し、日本もシベリアに出兵し、1920年までに最大で7万2000人の兵を 駐留させ、戦費は10億円に達した。 (ロシア革命はそれでも成功し、1922年、世界最初の社会主義国となるソヴィエト社会主義共和国連邦=ソ連が成立した。)
大戦が終わりかける1918年に、日本のシベリア出兵に対して米の買い占めがおこり、米の値段が急上昇し、物価を上げることに なった。この状況に、富山県の主婦たちが米屋をおそう暴動がおき、米騒動とよばれ、全国に広がっていった。政府は軍隊を出動 させ、これらをしずめていった。
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大戦はドイツの敗北に終わり、パリで講和会議が開かれ、戦勝国とドイツ の間でベルサイユ条約が結ばれた。これによって日本はドイツが支配して いた南洋諸島を手にいることができた。
しかし、大戦が終わると、ヨーロッパの産業が回復し、日本の輸出は減少 して、倒産が相次ぎ、不景気となった。
また、日本の植民地支配に反対し、朝鮮では日本からの独立をめざした 三・一独立運動、中国では二十一か条要求がパリ講和会議で認められる ことに反対した五・四運動がおこった。
1920年、アメリカのウィルソン大統領の提案で、国際連盟が設立され、 日本は常任理事国となり、新渡戸稲造が事務局次長になった。 ただし、発案国のアメリカは、自国の議会の反対により、加盟しなかった。
1921年、アメリカでワシントン会議が結ばれ、軍備の縮小とアジア・太平洋 の相互尊重と平和的解決を図る条約が結ばれた。この会議による条約に よって、日英同盟が廃棄された。
1923年、関東大震災が発生。首都圏が大きな被害を受け、その混乱の中 |
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大正時代頃の日本の貿易
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で、日本に住む朝鮮人や中国人が火災を発生させたと罪をなすりつけて、殺害された。また、同様に、社会主義者や労働組合の 指導者も殺害された。この震災で不景気に一層の拍車をかけた。 |
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凌雲鶴(りょううんかく:浅草十二階ともよばれた) 1890(明治23)年に建てられ、十二階建てであることから浅草十二階ともよばれた。日本 初の電動式エレベータが設置され、浅草のシンボルタワーとして人気を博したが、明治後期 には経営困難に陥った。関東大震災で8階から上が崩壊し、経営困難も加わって軍隊に よって破壊された。 |
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江戸東京博物館 | | |
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2.大正デモクラシー |
大正時代(1912年〜)に入ると、憲法を守り、藩閥政治 をやめて、政党による立憲政治をめざす運動が尾崎幸雄、 犬養毅を中心におこり、これを第一次護憲運動という。
1916年、吉野作蔵が、議会政治と普通選挙制の必要性 を説く民本主義を唱えると、民主主義運動が高まり、大正 デモクラシーとよばれる運動がおきた。
軍人出身で、非立憲的な藩閥政治を行い、シベリア出兵 や社会主義者の弾圧を行っていた寺内正毅内閣が米騒動 によって総辞職すると、原敬が内閣総理大臣となり、軍部 と外務大臣以外はすべて立憲政友会の政党の者が大臣 となる初の本格的な政党内閣が成立した。 原敬は、華族の爵位をもたない最初の首相であることか ら、平民宰相(さいしょう)とよばれた。
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選挙権を持つ人の変化
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実施年 |
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年齢・性別 |
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直接国税 |
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総人口の中の有権者の割合 |
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1890年 (明治23年) |
25歳以上 男子 |
15円以上 |
1.1% |
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1903年 (明治35年) |
25歳以上 男子 |
10円以上 |
2.2% |
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1920年 (大正9年) |
25歳以上 男子 |
3円以上 |
5.5% |
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1928年 (昭和3年) |
25歳以上 男子 |
制限なし |
19.8% |
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1946年 (昭和21年) |
20歳以上 男女 |
制限なし |
48.7% |
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米騒動による政権交代や、ロシア革命での人民による帝政の崩壊は、日本国民に多くの社会運動をもたらした。
1920年5月には、日本最初のメーデーが行われ、1921年には、日本労働総同盟という労働組合の全国組織が結成された。
1922年には、日本最初の小作組合の全国組織となる日本農民組合が結成され、農民の地位向上をめざした。
平塚雷鳥(らいちょう・らいてう)や市川房枝らは青鞜社をつくり、女性の参政権や封建的で古い因習から自己を解放しようと する婦人解放運動を行った。
部落差別を受けていた人たちが全国水平社を結成して、差別解消を求めた。
こうした社会運動が盛んになる一方で、清浦奎吾(けいご)が内閣総理大臣になると、貴族院中心に組閣をし、議会を無視した 政治を行ったため、憲政会、革新倶楽部、政友会の護憲三派とよばれる政党を中心に、清浦内閣の打倒や普通選挙法の断行 などを求める第二次護憲運動が行われた。
この運動により、清浦内閣はわずか5ヶ月で総辞職し、加藤高明が内閣総理大臣となり、護憲三派による連立内閣が組織され た。加藤内閣は、1925年、普通選挙法を成立させ、満25歳以上の男子すべてに選挙権を与える法律を制定したが、同時に、国の 体制の変革や私有財産の否認といった社会主義運動を禁止する治安維持法も制定した。 | |
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3.大正時代の文化 |
産業の発達とともに、都市の人口増加に伴い、バスや市内電車が発達していった。また、教育が 普及し、高い教育を受ける人々が増えて新聞や雑誌の発行も増加していった。
1925年には、ラジオ放送が始まり、音声の出る映画もつくられるようになった。
医学では、野口英世がアメリカに渡って細菌学で成功し、さらにアフリカで黄熱病を研究した。
文学では、人間性を重視し、人間愛を実践し、さらに人類の福祉向上を目指す人道主義の立場で、 生命の創造力をうたった白樺派とよばれる文学グループが生まれ、武者小路実篤や志賀直哉らが 活躍した。 |
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野口英世
上野公園 |
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芥川竜之介は、「羅生門」などの作品を通して、歴史的素材を再構成し、理知的な作品を残した。川端康成は「伊豆の踊り子」 などを残し、感覚的表現を主張したことから、新感覚派とよばれた。 大正時代から昭和時代の初期にわたり、プロレタリア文学とよばれる労働者の文学も生まれ、小林多喜二の「蟹工船」が 代表的な作品である。
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標準問題 |
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