1890年以降、綿工業など、繊維工業を中心に軽工業が発展し、第1次産業革命が 始まっていた。
この頃、日本は朝鮮の支配権などをめぐり、清と対立していた。1894年、朝鮮南部 で農民が反乱し、甲午農民戦争を起こすと、鎮圧を名目に日本、清が軍隊を送り、 日本の朝鮮改革案を清に拒否されると、日本は清に宣戦布告をし、日清戦争が 始まった。
日清戦争は日本の勝利に終わり、1895年、下関条約が結ばれる。この条約で、 日本は台湾や遼東(リャオトン)半島をゆずりうけ、日本円にして約3億1000万に なる賠償金2億両(テールを得ることができた。
しかし、満州や朝鮮進出を考えていたロシアは、フランスとドイツをさそって、遼東 (リャオトン)半島の返還をせまり、日本はこれを受諾した。このロシアの勧告を三国 干渉という。
|
|
|
|
日清戦争で得た賠償金の一部で、1901年、福岡県に八幡製鉄所をつくり、重工業の発展をうながした。これを第2次産業革命 という。しかし、第2次産業革命は、工場近隣の農作物に影響を与えたり、女子労働者を低賃金・長時間労働などの問題を引き 起こした。栃木県の足尾銅山鉱毒事件は衆議院議員の田中正造による天皇への直訴は、日本最初の公害事件として、また、 細井和喜蔵の「女工哀史」はこの頃の様子をあらわしている。
三国干渉によるロシアに対する反感が強まる中、1902年、日本はヨーロッパでロシアと対立していたイギリスと日英同盟を結び、 ロシアに対抗した。
|
1904年、満州と韓国(1897年、朝鮮から改称)をめぐって日本とロシア で日露戦争が開戦した。日本は、東郷平八郎の指揮する海軍が日本海 海戦でバルチック艦隊を破るなど、各地で勝利したが、戦争が長期化す る中で、日本は兵力が物資が不足し、ロシアでは革命運動がおこった。
1905年、アメリカの仲立ちでポーツマス条約が結ばれ、日本はロシア から南満州鉄道の権利や樺太の北緯50°以南を獲得した。また、ロシ アは韓国指導権を認め、日本は韓国に統監府をおいた。 ただし、賠償金を得ることができず、それを不満に東京の日比谷で暴動 がおき、軍隊が鎮圧にあたる事件(日比谷焼き打ち事件)がおきた。 |
|
|
東郷平八郎と戦艦三笠 |
|
|
三笠公園(神奈川県横須賀) |
| |
1909年、初代韓国統監の伊藤博文が、韓国の青年の安重根(あんじゅうこん)に暗殺される事件がおき、これを契機に日本は 1910年、韓国併合を行い、朝鮮総督府をおいて1945年まで植民地支配を行う。
日清戦争と日露戦争を通じて、農村では土地を買い集める地主が増え、裕福な地主と貧しい小作人との格差が広がり、小作料 の軽減を求める小作争議が各地でおこった。 都市では農家の次男や三男や女子が工場で労働者として働き、厳しい労働条件の改善を求めて労働争議も各地でおきた。
こうした社会的な格差をなくし、平等な社会を求める社会主義の思想が生まれ、社会主義運動として広まっていった。政府は、 1910年、天皇の暗殺を計画したという架空の事件をつくり、首謀者として幸徳秋水らを死刑にして弾圧を行った。これを大逆事件 という。 |