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社会科 歴史(ハロ歴) No.8 室町時代 ■ |
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1.建武の新政と室町幕府の成立 |
1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。 後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力 な御家人が挙兵を行なう。
悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉 を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。
隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、年号を建武として天皇自ら政治を行い、これを建武の新政という。後醍醐天皇は 天皇中心の政治を目標としたため、鎌倉幕府滅亡に貢献した武士よりも、公家に多くのほうびを与えたので、武士の不満を高める ことになった。 | |
1336年、足利尊氏は建武の新政に不満をもつ武士を 集めて京都を攻め、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ た。これにより、建武の新政はわずか2年で終わった。
後醍醐天皇は吉野で朝廷をつくり、南朝とし、足利尊氏 は光明天皇をたてて、京都で朝廷をつくり、北朝とし、この ような状態は3代将軍の足利義満が合一するまで約60年 間続き、南北朝時代という。
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、京都に 幕府を開き、室町時代が始まる。室町幕府は3代将軍の 足利義満のときに京都の室町に花の御所をつくってその 体制がととった。
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室町幕府のしくみ
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室町幕府のしくみは鎌倉幕府のしくみとほぼ同じで、執権の代わりに管領をおいた。管領は北条氏のように一族だけではなく、 細川氏、斯波氏、畠山氏の守護大名とよばれる一族が交代でついた。
守護大名は、南北朝時代の動乱を通じて地頭などの武士を家来にして自分の領地にしていった武士である。細川氏、山名氏、 大内氏、赤松氏などが有力な守護大名で、後の守護大名の対立は応仁の乱の原因ともなる。
また、鎌倉には鎌倉府をおいた。 | |
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2.勘合貿易と応仁の乱 |
足利義満は、1392年に南北朝を統一した後、中国の明と貿易を行なった。貿易を行なう際、倭寇とよばれる海賊と区別する ために、勘合という合わせ札を使用したことから勘合貿易とよばれる。
勘合貿易の主な輸入品は、銅銭、生糸、絹織物、陶磁器、書画、主な輸出品は、金、銅、刀剣、よろい、いおう、蒔絵・扇・硯 などの工芸品であった。
義満は京都の北山に金閣寺を建てるなど、室町幕府の安定と栄華をもたらした。これを北山文化という。
1467年、8代将軍である足利義政の後継ぎ問題をめぐり、守護大名の細川勝元と山名宗全(持豊)が東軍と西軍に分かれ て、京都を舞台に戦乱となり、約11年間続く応仁の乱が始まった。
応仁の乱によって、京都は焼け野原となり、また幕府の財政も悪化すると同時に幕府の力が衰えた。幕府の権威が弱くなる と、その権威に頼っていた守護大名の権威も落ち、守護大名の家臣であった武士が領地を支配し始め、大名になっていった。 これが戦国大名である。今まで下にいた者が実力で上のものを倒すことを下克上といい、この下克上がさかんに行なわれた 時代を戦国時代という。戦国時代は応仁の乱から約100年間も続いた。 | |
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3.室町時代の産業と民衆の自立 |
農業では、鎌倉時代から始まった二毛作は、室町時代に なると関東まで広がり、西日本の先進地域では米→麦→ そばを育てる三毛作を行なう地域もでてきた。また、みかん、 茶、綿を栽培する原料作物をつくるところもあった。
工業では、全国各地に特産物がつくられるようになり、 京都西陣の絹織物、尾張(愛知県)瀬戸の陶器、灘(兵庫 県)の酒、三河(愛知県)の木綿などがある。
商業では、鎌倉時代では月に3回の定期市(三斎市)が、 6回の六斎市になるところもあり、取引として、勘合貿易 で輸入された銅でてきた明銭が使われた。
鎌倉時代からあった土倉や酒屋といった金融業が宋銭、 明銭を使った高利貸しとして京都・奈良を中心に繁盛した。
鎌倉時代に、陸上輸送を行なっていた問丸は問屋(といや) とよばれ、輸送だけではなく、商品を卸したり、宿を経営する ようになっていった。また、陸上輸送に馬を使う馬借や牛に 荷車を引かせる車借もあらわれた。
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各地の主な特産物
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産業の発展は都市の発展へとつながっていった。奈良、京都、鎌倉は政治の中心地として栄え、特に京都は、応仁の乱の後は 町衆とよばれる商人たちによって復興させ、自治まで行なった。
滋賀県の坂本は延暦寺のふもと、三重県の宇治山田は伊勢神宮、長野は善光寺を中心に寺社にできた都市で門前町という。
福岡県の博多、大阪府の堺は、勘合貿易の貿易港として栄え、港町という。
山口は勘合貿易で利益を得た大内氏の町として栄えた都市として城下町という。 | |
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農業や都市、産業が発展するにつれて、農村では惣(そう)という自治組織をつくり、自分たちで村を運営する惣村があらわれる ようになった。惣村では寄合という会議を開き、村のおきてをつくり、時には団結して領主に税の負担の軽減を求めたり、要求が 受け入れられないと土一揆とよばれる抵抗を行なった。
土一揆とは、農民や商工業者、下級武士など土民とよばれる人たちが主体となり、領主や土倉・酒屋に対して武装して暴力に よって要求した。
1428年、近江(滋賀県)の馬借が蜂起をきっかけに、山城(京都府)さらには近畿地方一帯に波及した土一揆で、酒屋・土倉・ 寺院などを破却し幕府に借金を取り消させる徳政令を求めた。これを正長の土一揆といい、徳政令を求める土一揆を徳政一揆 という。徳政一揆はこの一揆のほかに、1441年の嘉吉の土一揆が大規模な一揆であった。
1485年、国人とよばれる有力な武士と土民が南山城(京都府南部)で、守護大名であった畠山氏の軍を退陣させ、36人の国人 が8年にわたって支配した。これを山城の国一揆といい、国人が守護大名を追放して、自分たちで支配する一揆を国一揆という。
1488年、加賀(石川県)の一向宗(浄土真宗)の守護の富樫氏を滅ぼして、国人・僧侶・農民の寄合による自治が約100年間も 続いた。これを加賀の一向一揆という。 | | |
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4.室町時代の文化 |
室町時代の文化は、前の鎌倉時代の武士の文化に貴族の文化がまじりあい、中国の元や明、禅宗 の影響を受け、簡素で趣のある、深い味わいのある文化である。また、応仁の乱で京都での戦火を 逃れた文化人が地方でその文化を広めたり、民衆の文化も生まれるようになった。
室町時代の文化は、大きく2つに分かれ、1つは足利義満のころで、北山に建てられた金閣寺に代表 される北山文化と、もう1つは足利義政のころで、東山にある現在の和室の原形となる書院造をもちい た銀閣寺に代表される東山文化に分かれる。
文学では、南北朝時代に、南朝の貴族である北畠親房が歴史書である「神皇正統記」を書き、南朝 の正当性を主張し、歴代の天皇の業績が書かれている。また、南朝の立場で、鎌倉幕府の滅亡から 南北朝の動乱までを描いた軍紀物である「太平記」もある。
短歌の上の句と下の句を数人でつなげていく連歌が行なわれるようになり、宗祇が大成し、正風連歌 とよばれた。
庶民の物語として、「一寸法師」、「浦島太郎」、「さるかに合戦」、「ものぐさ太郎」など短編物語である お伽草子が生まれた。
仏教では、禅宗が幕府に保護され、武士や庶民に広まり、また、鎌倉時代におこった新しい宗派も |
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金閣寺
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銀閣寺
列島宝物館
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それぞれ信者を増やしていった。
絵画では、中国から伝わってきた、墨の濃淡や強弱で風景などを描く水墨画がはじめられ、禅宗の僧であった雪舟が大成 した。
芸能では、足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥の父子が、もともと社寺の祭礼に奉仕する猿楽能に、農民の間で伝統的 に行なわれていた田楽を取り入れ、能楽として大成させた。世阿弥が書いた芸術論として「風姿花伝」がある。さらに、能の演技 の合間に演じられた滑稽で短い劇である狂言も生まれた。
その他の芸術として、鎌倉時代に栄西が宋からもたらした茶が日本でも栽培されるようになり、禅宗の僧や武士、堺の商人たち の間で「侘び茶」として広まっていった。また、生け花である華道も足利義政の時代あたりに大成された。
寺院では、建物そのものだけではなく、水を使わずに砂と石で自然の山水をつくる枯山水とよばれる庭園もつくられた。
庶民の間では、京都の祇園祭や各地の盆踊り、正月や節句などが盛んに行なわれるようになった。 | |
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