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社会科 歴史(ハロ歴) No.7 鎌倉時代 ■ |
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1.鎌倉幕府の成立と執権政治 |
平氏の専制政治に貴族や他の武士の不満が 高まり、1180年、後白河法皇の子どもである 以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に平氏追討 命令を出し、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵 し、源平合戦が始まった。
頼朝の従兄弟である源(木曽)義仲は京都に 攻め込み、平氏は西国へ逃れることになった。 義仲はその後、平氏を追わず、後白河法皇と 対立して、頼朝に滅ぼされた。
頼朝の弟である源義経は、一の谷(兵庫県)の 戦い、屋島(香川県)の戦いで平氏を破り、つい に壇ノ浦(山口県)の戦いで平氏を滅ぼした。 |
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鎌倉幕府のしくみ
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平氏が滅びゆく中、源頼朝は国ごとに守護、荘園ごとに地頭を設置して、御家人を任命し、 全国を支配していった。さらに、頼朝は後白河法皇に後押しされていた義経を追討し、その 義経をかくまった奥州藤原氏をも滅ぼし、頼朝に反対する勢力をなくしていった。
1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、神奈川県の鎌倉で幕府を開き、約140年間、鎌倉 時代が続くことになる。
将軍に仕える武士を御家人といい、将軍は御家人の土地を保障したり、手柄に応じて新しい 土地を与えるという御恩を与えると同時に、御家人は将軍への忠誠を誓い、戦の時には一族 を引き連れて「いざ鎌倉」などと言いながら出陣する奉公とよばれる労役を行なった。 |
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封建制度による主従関係
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このような関係を主従関係といい、こうした主従関係にもとづく制度を封建制度という。また、武士による政治はこの鎌倉時代から 江戸時代まで続き、約650年間続いた。 | |
御家人は武家造とよ ばれる堀や土塀をめぐ らした質素な館に住み、 自分の領地で農民を つかって農業を営んだ り、犬追物や笠懸(かさ がけ)、流鏑馬(やぶさ め)といった武芸に励ん でいた。 |
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御家人の館(模型) 国立歴史民俗博物館 |
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笠懸 |
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頼朝の死後、子どもの頼家と実朝が将軍になったが、政治の実権は、頼朝の妻であった北条政子とその父である北条時政に うつっていた。源実朝が頼家の子である公暁(くぎょう)によって殺されてしまうと、源氏の血筋がいなくなり、北条氏は朝廷から 名目だけの将軍を迎え、自分たちは執権となって政治を動かすようになり、これを執権政治という。
1232年に、北条泰時は51か条からなる鎌倉幕府の基本法律を制定し、御成敗式目または貞永式目ともいう。武士によるはじめ ての法律で、政治や裁判のしかたを定め、後の武士の法律の手本ともなった。
荘園や公領が地頭に侵略されていた後鳥羽上皇は、源氏が3代で途絶えると1221年に幕府に不満をもつ武士や貴族に呼び かけて、執権であった北条義時を倒そうとしたが、北条政子が夫の源頼朝の御恩を御家人に説き、御家人を結束させ、義時の 子である北条泰時を総大将として京都を攻め、後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流された。これを承久の乱という。承久の乱の後、 朝廷の監視と西国の御家人の支配を行なう六波羅探題がおかれた。 | |
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2.元寇と幕府のおとろえ |
鎌倉時代、中国ではチンギス=ハンがモンゴルを統一してモンゴル帝国を建国していた。5代皇帝のフビライ=ハンはさらに 中国を支配し、元とした。元は朝鮮の高麗も支配し、8代執権である北条時宗にも服従を求めたが、時宗はこれを拒否した。
フビライが1274年、大軍を率いて北九州の博多湾を攻め、集団戦法とてつほうとよばれる火薬兵器に日本軍は苦戦したが、 元軍の内陸への侵入を阻止した。これを文永の役という。
※元寇の神風(暴風雨)説について 定説として、文永の役では、一騎打ちが通常であった日本の戦法に集団戦法の元軍に一方的に破れたものの、暴風雨 によって元軍が撤退したと言われているが、他の史料や文献と合致していない(暴風雨は起きていない)ことが多く、この 説は疑わしいものになっている。
1281年、元軍は再び日本を攻めてきたが、前もって防塁を築き、元軍の戦法も知ってたので、撤退させることができた。また、 暴風雨が起き、海上にいた元軍を壊滅させることもできた。これを弘安の役という。また、文永の役と弘安の役の2つをあわせ て元寇という。
元寇で日本は勝利したものの、幕府の財政は悪化し、御家人も命がけで戦ったにもかかわらず、新しい土地をもらうことが できず、高利貸しから借金をしても返済できずに土地を手放すものも少なくなかった。
幕府は御家人を救済するために、借金を帳消しにする徳政令を出したが、その後、御家人にお金を貸すものがいなくなり、 かえって生活を苦しめ、幕府への不満が高まっていった。 | |
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3.鎌倉時代の産業 |
農業では、鉄製農具が普及すると同時に牛や馬を耕作に使う牛馬耕も始ま り、草や木の灰を肥料としたりするなど、生産性が向上した。
近畿地方など、西日本の一部では、農地の地力向上によって、米をつくった 後に麦を収穫する二毛作が始まった。
農民は国司や荘園領主といった貴族と地頭である武士の両方から支配され て、年貢と労役などを貸された。時には、横暴な地頭を荘園領主に訴えること もあった。
農業の進歩は、鉄製の農具や刃物をつくる鍛冶や、紙をつくる紙すきなどの 手工業者を生ませ、商品をつくるようになった。
さらに、商品や年貢を運ぶ問丸(といまる)という運送業者まであらわれるよ うになった。
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一遍上人絵巻と定期市の様子(模型)
国立歴史民俗博物館 |
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手工業者や商人は座とよばれる同業者の組合をつくり、利益を守るようになった。
商品生産の成長により、交通の要地や寺社の門前、人の多く集まるところでは月に3回ほどの定期市(三斎市ともいう)が開かれる ようになり、売買には日宋貿易で行なわれていた宋銭が使われた。 | |
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4.鎌倉時代の文化 |
鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の宋の影響を受けながらも素朴で力強いものが多く、貴族や武士だけ ではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。
平安時代では貴族だけに信仰されていた浄土教を、法然が「南無阿弥陀仏」という念仏だけを唱えれば極楽往生できるという浄土宗 を説き、庶民にも信仰できるようにした。その後、新しい仏教が次々と生まれ、人々に広まっていった。
法然の弟子であった親鸞は、阿弥陀仏が救おうとしている人は、自力で修行してそれに満足している人よりも、自分を悪人だと自覚 している人であるという悪人正機説を唱えて浄土真宗(一向宗)を開いた。
一遍は、時宗を開き、念仏を唱えながら鉦(かね)や太鼓に合わせて踊る踊り念仏という形で信仰を広めていった。
日蓮が開いた日蓮宗は、お経の名前である「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを主張した。
中国では、座禅によって悟りを開く禅宗が広まり、日本にも影響を及ぼし、2つの宗派が広まった。
栄西は、与えられた問題を座禅を組んで解く臨済宗を開き、幕府の保護を受け、上級の武士に支持された。 道元は、ひたすら座禅を組むという曹洞宗を開いた。 | |
建築では、平安時代に台風で倒壊した奈良の東大寺南大門が再建され、天竺様という雄大で 力強い建物になっている。また、鎌倉の円覚寺舎利殿は、唐様とよばれる繊細で美しい建物が 特徴である。
彫刻では、運慶・快慶による東大寺南大門の金剛力士像が有名である。
文学では、平氏の栄華と滅亡までの物語である「平家物語」が、盲目の僧である琵琶法師によって 語られた。また、吉田兼好の「徒然草」と鴨長明の「方丈記」の随筆はこの時代の特徴である無常観 (世の中は常に変化しているという考え方)を表した作品である。
和歌では、平安時代の古今和歌集に続いて、藤原定家が編纂した「新古今和歌集」と3代将軍で ある源実朝の「金槐(きんかい)和歌集」がある。
絵画では、大和絵の技法を使って、人物を写実的に描く似絵があらわれ、源頼朝像が有名である。 また、絵巻物では、九州の御家人である竹崎季長(すえなが)が元寇で活躍したときのようすを描いた 「蒙古襲来絵詞」は有名である。
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東大寺南大門(奈良)
ゆんフリー写真素材集
円覚寺舎利殿(鎌倉)
列島宝物館 | |
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