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社会科 歴史(ハロ歴) No.6 平安時代 ■ |
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1.平安京と桓武天皇の政治 |
聖武天皇の死後、貴族の争いを始め、道鏡といった仏教僧が政治に介入してきた ので、桓武天皇は政治のたて直しをはかろうと、784年に長岡京、794年に平安京を、 奈良から京都へ都をうつした。
桓武天皇は複雑な役所を簡単にしたり、国司の不正を防ぐ勘解由使(かげゆし)や、 兵士は農民からではなく、郡司の師弟から採用する(健児(こんでん)の制)など、 今まで律令にはなかった役所をもうけた。
外交面では、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷(えみし・えぞ)とよばれ ていた東北地方に征討に行かせ、宗教面では、奈良の寺院が平安京に移ることを禁止 し、政治に介入せずに山奥で修行する最澄の天台宗と空海の真言宗を保護した。
都を京都の平安京にうつした794年から1192年の鎌倉幕府が開かれるまでの約400年 間を平安時代という。 |
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天台宗寺院 比叡山延暦寺 (滋賀県)列島宝物館
真言宗寺院 高野山金剛峰寺 (和歌山県) Free Level Photos
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2.藤原氏と摂関政治 |
中臣鎌足、藤原不比等らの子孫である藤原氏は、他の貴族をしりぞけたり、娘を 天皇のきさきにし、生まれた男の子を天皇にたて、自分たちは摂政・関白という地位 について政治の実験を握るようになった。これを摂関政治という。
摂政は天皇が幼いときに、代わりとなって政治を行い、関白は天皇が成人になった 後も、後見人として政治を行なう役職である。摂政は藤原良房(よしふさ)が皇族以外 ではじめてその役職につき、関白はその子の藤原基経(もとつね)がはじめてついた。
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寝殿造 国立歴史民俗博物館 |
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摂関政治は11世紀前半の藤原道長とその子である頼通のときに全盛となった。 道長は「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」という世の中を支配できたような短歌 を残し、頼通は京都の宇治に、寝殿造という当時の文化を代表する建築物である平等院鳳凰堂を建てた。
また、私有地である荘園の持ち主は、税が免除される不輸の権や役人が荘園に立ち入ることができない不入の権 を手に入れるようになり、平安時代の中ごろにはこうした荘園が増加し、律令体制がくずれると同時に、その荘園を 藤原氏に寄進するようになり、藤原氏の勢力は拡大することになった。
地方では、政治が国司に任せきりになり、富を増やすことに専念する国司もあらわれるようになっていった。尾張の 国(愛知県)の藤原元命(もとなが)は、郡司や農民にその横暴ぶりを訴えられ、国司をやめさせられた。 | |
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3.国風文化と浄土信仰 |
藤原氏以外で政治に力をもったのが菅原道真であった。藤原氏は道真を排除しようと 894年に遣唐大使に任命するが、道真は天皇に遣唐使の廃止を訴え、その意見が取り 入れられた。これにより、日本独自の文化が生まれ、国風文化という。 (菅原道真はその後、謀反の罪をきせられ、大宰府に流される。)
国風文化では、漢字からひらがな、かたかなといったかな文字が生まれ、それによっ て最初の物語である「竹取物語」、貴族の光源氏を中心に平安の王朝貴族の生活を描 いた紫式部の「源氏物語」、随筆としては清少納言の「枕草子」、日記では紀貫之が書 いた「土佐日記」などが作られた。かな文字は藤原氏出身の皇后などが、教養や才能を もつ女性を侍女(身分の高い人に仕えて身の回りの世話をする女性)にしたこともあり、 女性の文学者が活躍した。
和歌も漢詩だけではなく、和歌も作られるようになり、醍醐天皇の命令により、紀貫之、 在原業平、小野小町を中心によって編纂された古今和歌集がある。天皇の命によって 編集された和歌集を勅撰和歌集という。
貴族たちは寝殿造とよばれる建築物の邸宅をつくり、中央の寝殿に主人が住み、左右
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平安貴族の服装と部屋 国立歴史民俗博物館 |
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対称の対屋、池をつくって釣殿、泉殿などから舟遊びも行なわれた。
服装は、男性では束帯(写真左側の男性が武官束帯、右側が直衣)、女性では十二単(写真手前)が正式なものと された。
11世紀になると、釈迦が亡くなってから2000年後からは末法という世に入り、仏法が衰える乱世になるという末法思想 が貴族の間で信じられるようになった。貴族たちは阿弥陀仏の力によって自分の死後の来世は極楽浄土で生まれ変わ るという浄土教にひかれるようになり、「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえ、寺院をつくって祈るようになった。
浄土教の僧として、空也は諸国を遊行したのち、念仏を庶民に広め、源信は「往生要集」を著し、念仏による極楽浄土 の方法を示した。また、奥州藤原氏は平泉(岩手県)に中尊寺金色堂という阿弥陀堂を建てた。 |
絵画では、日本的な風物をテーマにした、やわらかい線と色彩で描いた大和絵が 寝殿造の屋敷のふすまや屏風などに使われ、源氏物語などのシーンを描いた絵巻物 などが生まれた。また、動物たちを人間にみたてた鳥獣戯画もこの時代の中で生まれ た。 |
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鳥獣戯画 蜻蛉屋 | |
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4.武士の台頭と院政 |
平安時代の中ごろから、地方では国司の不正が多く起こり、また郡司や有力な農民は豪族と成長し、勢力争いをする ようになった。荘園の所有者は自分の土地を守るために、一族や家来に武器を持たせるようになり、これが武士のおこ りである。
武士はより有力な武士を棟梁(とうりょう)として傘下に入り、武士団が形成されていった。935年に関東で平将門が、 939年には瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こした。これらの乱を平定したのも武士団であった。
武士団はさらに互いに勢力を争いながら、貴族や天皇など血すじや家柄のよいものに集まり、清和天皇の子孫であ る源氏と桓武天皇の子孫である平氏の2つの大きな武士団ができるようになった。
1051年に陸奥の豪族である安部時頼が国司に反抗し、前九年の役が始まった。朝廷の命によって、源頼義・義家 父子が1062年に平定し、源氏の東国確立のきっかけとなった。
1083年には東北地方の清原氏の相続争いをきっかけに反乱となり、後三年の役とよばれ源義家が平定した。これに よって、源氏が武家の棟梁としての地位が固まった。また、この反乱の平定に協力した藤原清衡は奥州平泉を支配し、 基衡、秀衡の3代にわたって奥州藤原氏として支配した。
この頃、朝廷では白河天皇が天皇を子(堀川天皇)に譲り、自分は上皇になって院とよばれる役所をもうけて政治を 行なうようになった。天皇の位を譲り、上皇または法皇となって政治を行なうことを院政という。白河上皇は藤原氏と 外戚関係がなかったため、藤原氏は急速に勢力が衰えていった。院政は、12世紀後半の後白河上皇まで約100年間 続いた。
1156年、崇徳上皇と後白河天皇、藤原忠通と頼長の兄弟が対立し、天皇側に味方した平清盛と源義朝が勝利し、 院政の混乱と武士の進出を示す事件となり、保元の乱という。
1159年、保元の乱で勝利した平清盛と源義朝の争いで、平清盛が勝利し、源義朝は殺され、その子である源頼朝 を伊豆に流した。これを平治の乱という。これによって、平氏繁栄のきっかけをつくった。
平清盛は娘の徳子を天皇の后にし、朝廷の最高の位である太政大臣にとなって権力を握るようになった。平氏は 全国の約半分の国と約500の荘園をもち、朝廷でも高い地位に着く様になっていき、「平家にあらずば人にあらじ」と まで言うようになった。
また、清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を整え、宋と貿易を行なった。日宋貿易での輸入品は主に宋銭、陶磁器、 絹織物、書物で、輸出品は金、いおう、刀剣、漆器であった。
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